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曲目解説
 (三輪 壮一)

ショパン 1810年〜1849

ショパンについては、いまさら詳しくご説明する必要はないでしょう。繊細で美しいピアノ曲の傑作を数多く書いた「ピアノの詩人」であると共に、20歳でポーランドを離れフランスで暮らしながら祖国を思い続けた「愛国家」でもありました。彼のピアノ曲は、ともするとサロン的で優雅な雰囲気を持つ曲に思われがちですが、必ずしも正確な理解ではないと思います。ショパンが、マズルカやポロネーズ等のポーランド特有の民族音楽を生涯にわたって書き続けた背景には、列強により分割されるという苦難の歴史に満ちたポーランドに対する、彼の強い祖国愛があったのです。

ノクターン 作品32-1, 32-21836年〜1837年)
  ジョン・フィールド(アイルランドのピアニスト)が創始したノクターン(夜想曲)は、  左手の和声的な伴奏に乗って右手が甘くせつない旋律を奏でる形を取っています。しかし   ながら、ショパンが作曲したノクターン(全21曲)は、「儚い美しさ」から「悲嘆」・  「激情」まで実に変化に富んでおり、サロン的な小品の域を超えた作品群であると言える  でしょう。
  作品322曲は、1836年‐1837年に作曲されました。マリア・ヴォジンスカに求婚するも   叶わず、リストの紹介でジョルジュ・サンドに出会った時期にあたります。

  作品32-1:穏やかで美しい旋律と、音楽の流れを遮るフェルマータ休止、それらが繰り        返されて続いていき、突然の劇的なコーダとなって終結します。

  作品32-22小節の「レント」の序奏の後の愛らしくも軽妙な主題、高揚する中間部、そ        して主題が力強く再現され、最後に再び「レント」で締め括られます。

バラード1 ト短調 作品23 1831年〜1835年)

バラードは元来歌曲の一種で、吟遊詩人たちが竪琴を弾きながら物語性のある詩を歌い語るのが中世の伝統的なバラードでした。ショパンは、バラードを歌詞のないピアノ曲として独立させた初めての作曲家です。
シューマンがショパンから聞いたところによると、ショパンは、ポーランドの愛国詩人アダム・ミツキェヴィッチの詩にインスピレーションを受けてバラードを作曲したとのこと。いずれも起承転結のあるドラマチックな曲想が印象的な作品です。
バラード1番は、4曲あるバラードの中で最も人気の高い曲で、彼がパリのサロンで名声を高めていった時期に作曲されました。ソナタ形式を基本としており、独創的な序奏、その後の2つの対照的な主題(特に第2主題の夢見るような儚い美しさ!)、華麗なパッセージと迫力あるコーダと、まさにショパンの数ある作品の中でも頂点をなす傑作です。

ルトスワフスキ 1913年〜1994

ルトスワフスキは、ワルシャワ大学で数学を専攻した後、ワルシャワ音楽院で作曲とピアノを学び、ピアニスト・指揮者としても活躍しました。母国ポーランドが第2次大戦とその後の共産国化という激動の歴史を経る中で、彼の作風も初期の新古典的なものから、民族主義的なもの、前衛的なものへと大きく変化していきました。彼の代表作としては、「オーケストラのための協奏曲(1950年〜1954年)」、「パガニーニの主題による変奏曲(1977年)」等が挙げられます。

牧歌 (1952年)

ルトスワフスキの生地であるクルピー(ワルシャワ北西部)の民族音楽に基づく5つの小曲からなっています。独特のリズムと和声を感じさせる曲です。

ブジェジンスキ 1867年〜1944

ブジェジンスキという作曲家をご存知の方は恐らくいらっしゃらないでしょう。何しろ地元ポーランドですら知る人は殆どいないのですから ---
 30台半ばで弁護士家業を辞めて音楽批評や作曲に専念したという変わった経歴の持主です。新聞や雑誌に音楽評論を書き、シマノフスキ、ストラヴィンスキー、ヒンデミット等、同時代の作曲家を高く評価したといいます。
 彼の作品は、作曲の恩師であるマックス・レーガーを模範としたこともあり、ポリフォニー(多声部の音楽)的な作風が特長となっています。

変奏曲 作品3 1908年)

彼の代表作である変奏曲は、1908年に作曲されました。荘重なテーマと9つの変奏曲からなります。第7変奏ではマズルカが、第9変奏(コーダ)ではクラコヴィアーク(古都クラクフの舞曲)というポーランドの民族音楽が使われています。
こんなにも美しい曲が人知れず埋もれてしまって良いのでしょうか?もっと演奏されてしかるべき曲だと思います。蛯原は、ポーランドから帰国後の1990年のリサイタルでこの曲を採り上げましたが、おそらくその演奏が日本での初演ということになったと思われます。本日の演奏は、ひょっとすると本邦2度目の演奏となるかもしれません。

シマノフスキ 1882年〜1937

 ショパン以降でポーランドを代表する作曲家といえば、シマノフスキの名前を挙げることになるでしょう。
 彼はウクライナ(当時はポーランド領)の富裕な地主の子として生まれ、幼いころからピアノに親しんで育ちました。何しろ叔父のゲンリフ・ネイガウス(ロシアの大ピアニスト)にピアノを学び、アルトゥール・ルービンシュタインとも交流していたのです。
 シマノフスキの作風は、初期の後期ロマン派主義、中期の神秘主義、後期の民族主義と大きく変化していきました。彼の代表作としては、ヴァイオリン協奏曲第1番、交響曲第3番、仮面(ピアノ曲)、オペラ「ルッジェーロ王」等が挙げられます。

  前奏曲 作品1 (1899年〜1900)

9曲からなる前奏曲は、とても1718歳の青年の作とは思えないほど充実した作品で、叙情的で洗練された和声が殊の外美しい曲です。この曲も(特に第1番、2番・7番等)もっと演奏されてしかるべきだと思います。

第1番:アンダンテ マ ノン トロッポ(ゆっくりと、ただし遅くなり過ぎないように) ショパンの    ノクターンを思わせる哀愁漂う美しい曲
2 : アンダンテ コン モート(ゆっくりと動きをつけて)  これも哀愁漂う美しい旋律が印象    的な曲
3: アンダンティーノ(ややゆっくりと) シンコペーションする旋律が特徴の曲
4番:アンダンティーノ コン モート(ややゆっくりと動きをつけて)右手が8分の6拍子、左手が    4分の2拍子の曲
5番:アレグロ モルト インペトウオーソ(非常に速く)きわめて速く激しい曲
6番:レント メスト(遅く悲しげに) ワグナーのトリスタン和声を思わせる半音階的書法     が特徴の曲
7番:モデラート(中くらいの速さで)美しい叙情的な旋律と神秘的な和声が印象的な曲8番:アンダンテ マ ノン トロッポ(ゆっくりと、ただし遅くなり過ぎないように) これも神秘    的な和声が美しい曲
9番:レント メスト(遅く悲しげに) 静かで悲哀をたたえた曲

ザレンブスキ 1854年〜1885

ショパンとシマノフスキの間の時期に活躍したピアニスト・作曲家ですが、結核により31歳の若さで亡くなった人です。ピアノの才能をリストに認められ、1年半にわたり彼から直接ピアノの指導を受けました。リストはザレンブスキの作曲家の才能を「天才だけが持つひらめき」と高く評価し、彼の作品の大半を出版するのに尽力したといいます。
 作品は全部で50曲、その大部分がピアノ独奏曲・連弾曲となっています。

タランテラ 作品25

「タランテラ」は、タランチュラ(毒蜘蛛)からきたと言われています。「蜘蛛噛まれると、その毒を抜くために踊り続けなければならない。」と考えられていたことから、テンポの早い旋律が繰り返し演奏されることになります。

ショパン 1810年〜1849

子守唄 変二長調 作品57 (1844年)

184434歳の時に作曲。この頃ショパンの健康状態はかなり悪化しいきますが、それを感じさせない華やかで美しい曲です。
シンプルな低音の伴奏にのった4小節の短い主題と16の変奏から構成されています。叙情性豊かであると共に、高音の華やかな装飾が印象的な曲で、まるでコロラトゥーラのアリアを聴いているようです。

バラード第4番 へ短調 作品52 (1842年〜1843年)

ショパンがこのバラードを作曲したのは、ノアンでサンドとの安定した生活を楽しんでいた時期に当たります。彼はこの時期に、スケルツォ第4番、即興曲第3番、英雄ポロネーズ等の傑作を次々に生み出しています。

バラード第4番は、穏やかで美しい序奏から、物憂げな第1主題、コラール風の第2主題が現われ、引き締まった展開部、重音を重ねた新たなモチーフ、ためらいがちに戻る再現部、迫力あるコーダへと続いていきます。繊細な叙情性と深い内面性を備えると共に高度なテクニックが要求されることから、第1番よりも高く評価する人が多く、「ショパンの最高傑作」とする人もいます。皆さんは第1番と比較して、どのように感じられたでしょうか。